BPO会社として得意先と強固な関係築く
帝国ホテル 東京の印刷物を一手に引き受けている新日本企画株式会社。永井寿雄社長は同社の創業者で92歳の業界最長老の経営者である。今回、ご無理なお願いにも関わらず取材を受けていただき、人生の転機となった仕事や思い出に残る出来事などについて話を伺った。
新日本企画株式会社
〒100-0011
東京都千代田区内幸町1-1-1帝国ホテル内
代表取締役
永井 寿雄(GC東京)
日本初のクレジットカード制作に携わる
太平洋戦争の末期、幾度となく東京が空襲に見舞われていた時、永井寿雄社長は中学生だった。「都心に焼夷弾が何万発も降り注ぎ、街が真っ赤に燃え盛るのを、世田谷区にある自宅の2階から眺めていました」と少年時代を振り返る。戦後、人々が失意のどん底から這い上がり、復興していく姿を目の当たりに見てきた。学校を出て社会人となり、教員になることを目指して、中学のクラブチームの活動を教えていたこともあった。
戦後復興期の1960年。「日本交通公社(現、㈱JTB)の子会社に勤めていた義兄(実姉の夫)から『JTBがクレジットカードを作ることになったので、その仕事を手伝わないか』と言われて、何も知らないまま手伝う羽目になりました。それはアメリカのダイナースクラブインターナショナルが、日本にダイナースクラブを設立し、クレジットカードを日本でも普及させていくという事業でした。それをJTBが請け負ったわけです」。
それが世界初のプラスチック製のクレジットカードであったことは知る由もなかった。当時、日本でクレジットカードを知る者は誰一人いなかったからである。まさに永井社長はクレジットカードの誕生と普及の一翼を担う一人になったのである。
「加盟店から広告料をいただき、その費用で活動していました。クレジットカードは今日では誰もが所有していますが、その最初の種まきをしたわけです。普及に至ったのは、JTBの信用と顔があったことが大きいです」と語る。
すでに59年に会社を設立していた永井社長は当時を振り返り、「新日本観光株式会社(現、㈱はとバス)が外国人観光客向けのはとバスツアーを企画したのですが、その英語のパンフレットの作成を受注しました。翻訳は別の会社が行い、弊社が写植機を使って英語の版下を作り印刷するという仕事です」と、主な仕事を述懐した。
また、61年には日本で初めて開催されたロータリー国際大会で、大会で使用する印刷物や看板づくりにも携わったという。「世界各国から人が集まり、大盛況でした」。日本の国際化の幕開けとなる一大イベントに関わったことが、良き思い出として今でも目に浮かぶとのことだ。
帝国ホテル 東京の印刷業務を担う
旅行関係の印刷業務を続けていたことから、やがて帝国ホテル 東京から印刷物の制作の話が入り、同ホテルの印刷物の制作を請け負うようになった。今では同ホテルの宴会や婚礼などの各種イベントやレストランに関する印刷物を一貫体制の下で制作している。
印刷機はリョービのA3縦通しオフセット印刷機とA3縦通しオフセット2色機の2台を保有し、単色とカラーを使い分けている。コンピュータ式断裁機も保有し、名刺など小口の印刷物を裁断している。
帝国ホテル 東京は、伝統と格式のある、日本を代表するホテルであるため、業務の効率化、情報の機密性を重んじていることもあり、ホテルの業務に携わる会社はホテルの地下1階に集められている。そのため新日本企画も例外なく地下に会社を構えている。「帝国ホテルさんの業務を担っているという意識で仕事に取り組んでいます。強固な関係を築き、信頼を得てさまざまな印刷ニーズに応えています」と、ホテルの印刷業務を専門に行う経営方針を貫いてきた。
ここ数年、ホテル業界もコロナ禍で厳しい経営環境に見舞われ、同社も売上が落ちたが、今年に入って復調しつつあるという。ホテル内のイベントが継続的に開催されており、印刷需要もコンスタントに受注できているようなので、さらに経営は安定してくることだろう。
得意先に入り込みさまざまな業務を一括して受注するビジネスをBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)というが、同社はまさに帝国ホテル 東京の印刷物を一手に引き受けるBPOサービス会社と言えるだろう。経営理念は、帝国ホテル 東京からの要望に応えて最適な印刷物を作ることに徹することである。
永井社長は「今の若い経営者は新しいビジネスについてすぐに語って、取り入れようとします。ある意味すごいなと思いますが、私の世代は、10年は続けていないと、その仕事について語ることはできませんでした」と、歳月を重ねてノウハウを蓄積することの重要性を示唆する。
ところで、体調が優れない時を除いて、ほぼ毎日会社に出勤している永井社長であるが、積極的に体を動かしていることが健康の秘訣なのかもしれない。最後に若い世代に向けて贈る言葉として「大学はどこを出ていても関係ありません。社会人となって仕事をして結婚し、家族を作ることが大切です。私の経験からそれを確信しています」と締めくくった。
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